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国分寺(中世) 鎌倉期から見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
国分寺(中世) 南北朝期から見える地名尾張国中島郡のうち尾張国分寺とその周辺地域が国衙領の単位となったもの文和2年7月日付尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案に「国分寺四貫七百八十八文 同人(荒尾宗顕)」とあり,荒尾氏が地頭職をもつ国衙正税地(醍醐寺文書/稲沢市史資料編7)応安2年8月日付妙興寺末寺平野持地寺領坪付注文写に「追加一所 五段〈国分寺内此内二反立石〉」,嘉慶2年8月13日付妙興寺領坪付注文に荒尾泰隆寄進分として「一所捌町余 国分寺領」とあるなど(妙興寺文書/同前),地内に妙興寺や同末寺の所領もあった応永初年までには三分割されており,同4年正月日付尾張国目代注進状にはそのうち「国分寺三分一〈善応寺知行分〉」と「国分寺三分一〈号等持寺領〉」が見え,計正税4貫文が未進であった同6年に「国分寺三分一方」は河村知行であったが,同9~10年には「国分寺惣領方」「同妙興寺分」「同三分一方」もすべて守護斯波義重被官津田中務が給人となっている(醍醐寺文書/同前)こうした中で,荒尾泰隆が妙興寺へ寄進した8町余も守護方に押領されたという応永31年11月10日二宮備中省忠は,妙興寺より50貫文を借用した代わりに,「国分寺内妙興寺領」8町余を質物として同寺代官溝口に去り渡している長享元年頃の妙興寺領坪付注文にも当地が記される(妙興寺文書/同前)現在の稲沢市矢合【やわせ】町・船橋町辺り... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
国分寺(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
国分寺(中世) 鎌倉期から見える地名常陸国南郡府中のうち常陸国分寺(金光明寺)が所在弘安田文に,「国分寺十三丁」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文では「一,勅免地」として「国分寺十三丁」と記載されている(所三男氏所蔵文書)文明6年8月宇都宮成綱は,「国分寺修理替廿貫文,岡本中務方へ以此折紙致催足,請取可申候也」と,国分寺の修理について,某に申し送っている(糟谷慶助文書/家蔵文書)福島県いわき市の梵音寺木造地蔵尊台座銘に,「常州府中国分寺邑九品作 天文十六年七月」と見え(いわき市史),戦国期には村名でよばれていた天正13年,同寺は多賀谷重経の府中攻めにより炎上し再建されるが,同18年,佐竹氏の攻撃により再び炎上したと伝えられる(地名辞書)現在国分寺跡がある石岡市府中1~5丁目付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」